4.水海道の中学生Aさんからの質問
鬼怒川の歴史について調べているのですが、
- 鬼怒川の昔話があれば、おしえてください。
- かさねという女性の話と、
- 鬼怒川の氾濫をしずめる為に、人柱となったおきゃら伝説について、
詳しく教えてください。
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こんにちは!
質問をしてくれてどうもありがとう。Aさんの質問に答えるよ。
さぁ、ボクと一緒に勉強してみよう!。
- 「鬼怒川・小貝川周辺の昔話」のページへ(「鬼怒川・小貝川
自然・文化・歴史」より)
- 「累」というのは、昔、羽生村の与右衛門という農夫と、後妻「すぎ」の間に生まれた子なんだけれど、
「すぎ」には「助」という連れ子がいたらしいんだ。その「助」を与右衛門はひどく嫌っていたとかで、夫の愛情得たさに「すぎ」は、「助」を川に投げすててしまったんだって。
そのあと生まれた女の子「累(るい)は、
奇怪なことに「すぎ」が殺した「助」とうりふたつ、
「助」を女にしたかと思えるほどだったので、村びとは累(るい)ではなく累(かさね)と呼んでいたとか。
年頃になった累のところに、累の財産に欲を出した谷五郎が二代目与右衛門として後継となったらしいんだ。
でも、二代目与右衛門は、累の醜さに耐えられず累を鬼怒川の、後に名を残す「累ヶ渕」
の濁流に蹴落としてしまったんだとか。この言い伝えは、累が中心人物であることと、
「助」・「累」の殺された場所が「かさなった」ことから、「かさねがふち」と呼ばれているそうな。
現在、水海道の「法蔵寺」には、累一族や、その怨霊を払った人などのお墓や木像があるんだよ。
(参考:「鬼怒川物語・下」)
- オキャラというのは母娘で巡礼し、水海道まで来たときに、お母さんが病死し、
ただひとり残されてしまった気立ての優しいかわいい少女で、
孤独になってしまったオキャラは村の名主さんにお世話になっていたんだって。
ある年に何日も何日も雨が降り、堤防が崩れはじめ村中が水浸しになりそうだった。
そのため、人柱を立てて竜神さまの怒りをしずめようということになり、
オキャラが世話になった村びとたちを救うために、自ら身を投げたか、
または投げ込まれたかは説の分かれるところだというけれど、
人柱となったことは事実として今に伝えられているんだって。
ところがそのころ、大水の出たあとで疫病がはやり始めたり、
病気で亡くなる人ができてきたり。そこで、成仏できないでいるオキャラの魂を平和にしよう、
と鬼怒川べりで盛大な供養をしたんだって。それからは平和な村になり、
今は、水海道市の安楽寺というお寺のオキャラの墓碑に 「八池妙華信女 明暦2年4月12日」の文字が、苔むした碑面に刻まれているそうだよ。(参考:「茨城の民話と伝説」「鬼怒川物語・下」)
わかったかな?
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