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    カスリーン台風特集

    第3章 カスリーン台風の体験者の声を知る

    水災害の畏怖を今に伝える

     昭和22年9月15日、日本が敗戦の混乱から立ち直ろうとしているときにカスリーン台風は、戦後最大の台風として関東地方を襲いました。
    それから、半世紀以上が経過し、堤防や砂防ダム等の整備も進み、未曾有の被害をもたらしたカスリーン台風の記憶も次第に薄れつつあります。
     本章では、台風を体験された方々の記憶と当時の報道をたどることで惨禍を思い起こし、次の世代に引き継いでいきたいと思います。

    カスリーン台風から70年 体験者の声

    当時のお住まい(茨城県猿島郡中川村〈現:坂東市〉) 横島 福子さん(83歳)

     当時は13歳で中学1年生でした。利根川が決壊した日は何日も前から雨が続いていて、暗い中、父が持っていた舟を利根川から高台にある家の裏のあたりまで持っていきました。その後、「ドスン」と音がして堤防が崩れてきました。水の流れる「ゴォーゴォー」という音がいまだに頭に残っています。うちは高い場所にあるから被害はありませんでしたけど、土手の下に住んでいる親戚が避難してきて、母が炊き出しでおにぎりを作っていました。
     後から聞いた話ですが、近所に私よりも年上の女性がいて、男の子と一緒に逃げていたそうです。でも、「ドスン」と音がして振り返ったら男の子がいないと―。その男の子はいまだに行方不明です。
     台風などで川の増水が予想される時など防災ラジオからの情報に気を付けるようにしています。情報はとても大切ですね。

    当時のお住まい(栃木県足利郡毛野村〈現:足利市〉) 源田 晃澄さん(75歳)

     被災したのは4歳の時です。洪水が家を襲ったのは夜8時半ごろでした。父に連れられて本堂に逃げ、なおも水が迫るので、屋根を破って天井裏に上がりました。外ではごうごうと濁流の音がします。「助けてくれー」という声が、時間がたつにつれ消えていきました。母は「助けられずにごめんなさい」と手を合わせていました。
     水が引くとご遺体が寺に運ばれてきます。小さな子どもを抱いた母親の姿もありました。暑さの中で腐敗が進み、地獄絵図のような惨状でした。幼心に命の尊さを知り、その後の私の生き方の原点になっています。
     20歳代半ばから、亡くなった方々の調査を始め、ご供養も毎年続けています。学校などで体験を語る活動にも取り組んできました。当時を知る人が少なくなってきた今こそ、しっかりと伝え続けなければと思います。

    当時のお住まい(栃木県足利郡菱村〈現:群馬県桐生市〉) 神山 勇さん(79歳)

     カスリーン台風は9歳の時に体験しました。長男の私は、次男の手を引き、4月に生まれたばかりの3男を背負って高台にある織物工場に向かいました。両親が避難してくるのを待つ間は不安で、時間がとても長く感じられたのを今でも覚えています。
     避難所では他の家族と不安な一夜を過ごしました。翌日家に戻ると、自宅脇にあったアカシアの大木や石塔は流されてしまい、あらためて水の力、怖さを目の当たりに感じました。
     その経験から、災害時は早めの避難や備えが必要と学びました。日頃から自宅付近の地形や避難場所を確認し、近所の人とも話し合っています。
     あの時食べた、炊き出しのおにぎりのおいしさは今でも忘れられません。食料の備蓄はもちろん、電池が要らないエコタイプの懐中電灯なども常に用意しています。

    当時のお住まい(埼玉県北埼玉郡原道村〈現:加須市〉) 砂賀 幸夫さん(90歳)

     当時、私は原道村(現:加須市)で被災しました。(1947年)9月16日深夜零時15分頃、土手を越えた濁流が収穫前の稲をザザーッと地響きと共にものすごい音を立てて倒していったのが今でも耳に残っています。真っ暗闇の中、近所18人で近くの高台に逃げましたが、若者は私を入れて3人だけ。年寄りと子どものため流木でやぐらを組み、明け方に一面海のような光景を見て愕然としました。
     終戦から2年後の食糧難の時代。土手のバラック(仮設住宅)で砂地をスコップで掘り、溜まった水をすくって飲む、まさに裸一貫の生活。配給は乾パンだけでした。
     当時は大水害の経験がなく、ろうそくや懐中電灯の準備もしていない。私たちの経験を通じて日頃の備えが本当に大切だと今の若い方々に理解してもらえたらうれしいです。

    当時のお住まい(千葉県東葛飾郡田中村〈現:柏市〉) 松丸 善一さん(95歳)

     カスリーン台風が接近してきた夜、雨風が非常に強く私は稲木干しをしてあった稲を回収し終えた後、家に戻りました。しかし、3人がまだ田んぼで稲の回収に取り掛かっている状況でした。その後、利根川が氾濫し作業をしていた3人は、「助けてくれ」と言いながら、水に流されてしまったのです。皆で3人を探しましたが、残念なことに遺体として見つかりました。
     田んぼは広い範囲で浸水し、何日も水が引きませんでした。また、水に流されてきたゴミが多く撤去作業などに時間を要し、1年間はお米が作れませんでした。カスリーン台風については、あんな思いは二度としたくない非常に怖い記憶として残っています。この体験を後世に伝え、残していくために柏市と一緒に努力しています。若い人たちに水害の恐ろしさを分かってもらいたいです。

    当時のお住まい(東京都葛飾区) 斉藤 昭一さん(90歳)

     私が最初に目にした異常現象は江戸川が干上がったことです。当時は情報も乏しく、上流の堤防が決壊したらしいと聞いても、まさかここまで水が襲ってくるとは思いもしませんでした。ところがその夕方、今の水元公園近くを流れる大場川の桜土手(桜堤)が切れたと聞き、1人で見に行きました。大変な濁流が町に溢れ出しているのを見て飛んで帰り、荷物をまとめ、命からがら家族で江戸川土手に避難しました。家の周り中から低い所へと絶え間なく流れ込む水音が迫り、本当に怖かった。あの音は今も忘れられません。
     当時は私も若く好奇心旺盛だったので決壊現場まで見に行ったりしましたが、油断は禁物。今は情報が届く時代なので、台風の場合しっかり状況を把握すれば十分に備える時間はあります。自然災害は誰も経験したことのない「まさか」が起こるということを常に忘れないでほしいですね。

    当時のお住まい(埼玉県北埼玉郡東村〈現:加須市〉) 若林 力さん(82歳)

     当時、私は小学6年生、埼玉県東村新川通に住んでいました。農業組合の組合長だった祖父が、町内の代表者らと利根川の様子を見に行き、帰るなり言いました。「もう駄目だ!水が堤防を超えた、船を下ろす」。我が家の納屋の軒下には長さ3間幅4尺の船が括りつけられておりずっと不思議でしたが、それはこの地が度々水害に襲われてきたため、代々受け継がれたものだったのです。祖父の号令で、私たちは迅速に準備し、隣近所で助け合い、利根川土手へ無事避難。すっかり水が引き自宅に戻ることができたのは、二カ月以上後でした。
     川は暮らしのすぐ近くにあり、普段は親しみ深い存在なのに、こんなにも恐ろしく変化するということを、あの日以来忘れたことはありません。人の力の及ばぬ、思いがけない水害が起こるという、水の恐ろしさを後世に伝えていきたいと思います。

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