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時代を越えて生き続ける都会のオアシス |
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| 23. |
玉川上水(東京都羽村市〜新宿区) |
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玉川上水は江戸幕府が市中の水不足を解消するために開削した用水路です。多摩川の羽村取水堰から取水し、東京都の羽村市から新宿区四谷大木戸までを流れる延長約43kmの用水路(上水道)です。現在も羽村取水堰から小平監視所までの約12kmが上水路として利用されています。
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千手小橋上から見た玉川上水/玉川上水放流口/清流復活事業碑/水道局小平監視所/上水小橋付近(写真-H20.11撮影)
| 江戸の上水路 |
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江戸の上水
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幕府開府以降の江戸は、参勤交代制度の定着により多くの大名やその家臣が市中に屋敷を構えたり、農業・商業に従事する人口が増えたことで生活用水が不足していきました。既に江戸へは井の頭池(三鷹市井の頭)や善福寺池(杉並区善福寺)・妙正寺池(杉並区清水)等の湧き水を水源とした神田上水(小石川上水を拡張したもの)と赤坂の溜池を水源にした溜池上水から水を供給していましたが、それでは不足をきたすようになっていったのです。加えて江戸の町は海岸に近い湿地を埋め立てた造成地が多かったため、井戸を掘っても塩分の強い水が出てきて飲料水には適していなかったこと等の理由から、1652年(承応元年)、第四代将軍徳川家綱の時代に多摩川から江戸に上水をひく玉川上水建設が計画されました。
| 玉川上水の開削に尽力した人々 |
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玉川兄弟像
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幕府は江戸町奉行神尾備前守元勝に玉川上水の開設を命じました。神尾備前は、水利の技術を持ち土木工事にも明るかった庄右衛門と清右衛門兄弟(後の玉川兄弟)に上水工事のための調査を命じ、兄弟は羽村から江戸への導水計画を立て設計書と絵図面を作成しました。その絵図面を元に老中松平信綱[*1]と神尾備前らの立会いで実地調査を行い検討した結果、兄弟の計画は採用され、上水工事の総奉行に松平信綱、奉行に神尾備前、水道奉行に伊奈忠治[*2]、そして庄右衛門と清右衛門兄弟が工事を請け負い、1653年(承応2年)4月4日に工事が始まりました。
玉川上水の開削工事には謎が多く、詳しいことは分かっていません。「玉川上水起元並野火留分水口之訳書」(玉川上水起元ともいう)によると、工事完了までに2度の失敗があったと言われています。その二度の失敗にも二通りの説があり、一説には、1度目は多摩郡日野の渡しの側の青柳村段丘下(現在の国立市青柳)から水を引いたのですが、府中八幡宮下あたりで流れなくなり(旧甲州街道南段丘下にある古堀がその跡であるといわれています)、2度目は福生から掘り始めたのですが、熊川村(現在の福生市熊川)付近で浸透性の高い土に水が残らず吸い込まれてしまう水喰土(開削工事の跡が「みずくらいど公園(東京都福生市熊川1359-1)」に残っています)に当たってしまったそうです。
またもう一説には、1度目の失敗は日野から取水しようとして途中まで掘って水門を開けたところ水喰土ために工事は失敗し、2度目は福生を取水口として掘り進めたところ途中で大きな岩盤に当たり、先に進めなくなったとも言われています。またこの2度の失敗の最中、水道奉行であった伊奈忠治は二度の心臓発作を起こし、上水の完成を見ずに没しています。杉本苑子著の『玉川兄弟』では「重なる工事失敗の責任を取って切腹した」とありますが、これは三田村鳶魚著による『安松金右衛門 玉川上水の建設者』の中の「悲しみ坂[*4]での失敗の責め苦を負って上級役人が一人死んだ」という記述を元にしたフィクションです。忠治没後は息子である忠克によって水道奉行の職が引き継がれました。
これらの苦難の連続で、庄右衛門と清右衛門兄弟は幕府から工事費用として貰い受けた六千両を遣い果たしてしまいます。そんな折、松平信綱の家臣で土木技術に精通していた安松金右衛門の羽村から水を引くという案によって、3度目にしてようやく工事は成功したと言われています。これらのことから安松金右衛門が玉川上水の実際の功労者であり、庄右衛門と清右衛門兄弟は上水の請負施工業者に過ぎないという説もありますが、この兄弟が土木業者として多摩川中流部の事情に詳しく、そのことが幕府をして兄弟にこの工事を請負わせることになったと考えて間違いないと思われます。
羽村の取水口から四谷大木戸までの標高差はわずか約92メートルの緩勾配で、比較的平坦な原野が広がる武蔵野丘陵を100mにつき21〜2cmのわずかな勾配で掘削しなければならなかったため、正確な測量とそれを示す図面が必要だったはずです。伊奈一門の測量術は中国から渡来したものに和算家たちの計算法が加えられたと推定され、高低は夜間に提灯や線香を目印にしてU字型の管に水を入れた水準器で測り、その延長線上に火点を置いて水平を求めてることができ、距離や勾配は和算の三角函数(=関数)法などによって算出することが可能でした。
木樋
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石樋
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そして1653年(承応2年)11月15日に羽村から四谷大木戸までを白堀(=素堀)でわずか8ヵ月(この年は閏月で6月が2度あったため、8ヶ月になる)で開削しました。 虎ノ門まで地下に石樋・木樋による配水管を敷設して、翌年の1654年(承応3年)6月には江戸城・四谷・麹町・赤坂・芝・京橋に至る江戸市中への通水が始まりました。
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| 玉川上水の分水 |
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野火止用水放流口
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『上水記』[*5]によると、玉川上水からは飲料および灌漑目的で最も多い時で33分水が記録されています。最初に分水されたのは野火止用水で、当時川越藩主であった松平信綱が玉川上水を完成させた功績を認められ、玉川上水から領内の野火止(埼玉県新座市)へ三割の分水を許されました。早速、家臣の安松金右衛門と小畠助左衛門に補佐を命じて用水工事を進め、1654年(承応3年)に完成しました。信綱の通称である伊豆守から取って「伊豆殿掘」とも呼ばれています。また、1657年(明暦3年)の大火事(明暦の大火。俗に振袖火事)によって江戸の町は江戸城天守閣とともに大半が焼失しました。 幕府はこの災害を契機に大幅な復興再開発を行い、江戸はさらに周辺部へ拡大発展します。 拡大した江戸周辺地域に給水するため、1658〜1672年(万治・寛文年間)に亀有(本所)上水・青山上水・三田上水が相次いで開設され、1696年(元禄9年)には千川上水が開設されました。ところが1722年(享保7年)にこれら四上水が突然廃止されたのです。その理由として、当時の儒官であった室鳩巣の「江戸の大火は地脈を分断する水道が原因であるので、上水はやむを得ない所を除いて廃止すべきである」という提言が採用されたためであるとか、上水を廃止しても堀削技術の向上によって堀井戸から清浄な水が得られるようになったためであるとか、水道維持が困難であったこと等が挙げられています。しかし幕府の直轄領である武蔵野の新田用水への配慮から、4上水を廃止したのではないかという説も有力になっています。 その後、廃止された4上水のうち、三田上水と千川上水は農民からの強い要望により用水として復活しました。
| 江戸から明治へ 近代水道の建設 |
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1868年(慶應4年)の明治維新によって江戸は東京に生まれ変わり、文明開化が叫ばれるとともに欧米の諸都市を目標とした街づくりが行われ、東京の町は急激に変化していきました。しかし玉川上水は依然として江戸時代のままでした。江戸時代、水質悪化を案じた幕府は玉川上水の通船を許していませんでしたが、明治政府はそれを許可していたため、玉川上水はみるみるうちに汚染していきました。また明治維新後の混乱のためか、上水管理もおろそかになっており、十分な補修も行われない木樋の腐朽も水質を悪化させました。
政府は近代水道建設の技術指導を受けるために日本に招いたオランダ人土木技術者のファン・ドールンに改良意見書や改良設計書を提出させる一方、東京府も1876年(明治9年)も「東京府水道改正委員」を設置して、上水改良の方法や費用を調査し「東京府水道改正設計書」を作成しました。 ファン・ドールンや東京府水道改正委員の設計はいずれも原水を沈殿、ろ過して鉄管で圧送するというものでしたが、そのような近代水道の創設には巨額の費用が必要であり、道路整備なども必要であったため、さらに検討を加えていくことになりました。 東京府は近代水道創設の検討を進める傍らで、既存の木樋や上水路の補修を行い、水源汚染の取締りを強化する等、飲料水の安全確保にも心を砕きました。
こうした中、1886年(明治19年)に東京でコレラが大流行しました。過去にも数回コレラは日本を襲いましたが、この年は過去最悪の死者数(東京近郊で約1万人)が出ました。これに加えて上水の水源である多摩川上流でコレラの汚物流出騒ぎも起こり、玉川上水の水は皇居にも引かれていたため大きな問題となり、多摩川上流の水質管理が急務となりました。これをきっかけに1893年(明治26年)、東京府の管理外にあった三多摩地区[*6]は東京府下に入りました。これまで玉川上水の水源であった羽村(三多摩地区内)は神奈川県に属していましたが、東京府に編入することで水道管理をしやすくするためでした。
淀橋浄水場で使われていた蝶型弁[*7]
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そしてついに1898年(明治31年)の12月、当時の東京府豊多摩郡淀橋町(現在の東京都新宿区)に淀橋浄水場が完成し、神田・日本橋方面への給水を開始しました。翌1899年(明治32年)の1月からは各戸の給水工事に取り掛かり、2月からは浄水の給水を開始しました。近代水道の給水が一般家庭に普及したことに伴い、江戸時代から人々に親しまれてきた玉川上水はその役割を終え、1901年(明治34年)の6月に東京市内への給水を停止しました。
| 現在の玉川上水 |
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東村山浄水場全景
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昭和30年代後半から40年代には、高度経済成長に伴う首都圏への産業と人口の集中や下水道の普及によって、配水量が増加しました。昭和33年からは水源不足に加えて毎年のように渇水が起こり、昭和36年からは多摩川の長期渇水が続き、東京オリンピックが開催された昭和39年にはそのピークを迎えました。大都市地域で発生する水不足は深刻な問題で、多摩川の水源開発が限界に達していたこともあり、水源を利根川に求めました。そして1965年(昭和40年)には利根川と荒川を結ぶ武蔵水路が完成し、東京近代水道のさきがけとなった淀橋浄水場は、同年3月、その機能を東村山浄水場に移して廃止され、跡地は新宿副都心に転用されました。
羽村取水堰から取り込まれた多摩川の水は、小平監視所から分岐する導水路を通って東村山浄水場まで運ばれています。
| 上流部 |
中流部 |
下流部 |
| 羽村取水堰〜小平監視所 |
小平監視所〜浅間橋 |
浅間橋〜四谷大木戸 |
| 約12km |
約18km |
約13km |
| 取水導水路区間 |
清流復活区間 |
排水路区間 |
| ほぼ開渠 |
ほぼ開渠 |
ほぼ暗渠 |
玉川上水の中流部は淀橋浄水場が廃止されてからしばらく流れが途絶えていましたが、清流復活事業[*8]によって水流が復活しました。このような活動が功を奏し、1999年(平成11年)には開渠部分が、東京都歴史環境保全地域に指定されました。
| *1 |
松平信綱(まつだいらのぶつな) |
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江戸時代前期の譜代大名。武蔵忍藩主、のち武蔵川越藩初代藩主。江戸幕府の老中でもある。幼少の頃より才知に富んでおり、官職の伊豆守から「知恵伊豆」(『知恵出づ』とかけた)と称された。 1633年(寛永10年)に老中となり、徳川第三代将軍家光と第四代将軍家綱に仕える。1638年(寛永15年)川越藩主になる。慶安の変や明暦の大火などの対応に善処し、藩政では城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川の改修整備、野火止用水の開削、農政の振興などにより幕府創業の基礎を固めた。 |
| *2 |
伊奈忠治(いなただはる) |
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通称半十郎。 父の伊奈忠次と兄の忠政の死後、跡を継いで関東郡代(江戸時代に4ヶ所設置された郡代の一つで、幕府直轄領の民治を司る地方官であり、行政・裁判・年貢徴収なども取り仕切り、警察権も統括していた。また将軍が鷹狩をするための鷹場の管理も行っていた)となる。忠治は父や兄の生前の仕事を引き継いで、関八州(江戸時代の関東地方の呼び方。武蔵国・相模国・上総国・下総国・安房国・上野国・下野国・常陸国の八国を指した)の治水工事、新田開発、河川改修を行った。荒川開削や江戸川開削に携わり、また江戸初期における利根川東遷事業の多くが忠治の業績である。 |
| *3 |
玉川上水起元並野火留分水口之訳書(玉川上水起元) |
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普請奉行佐橋長門守佳如が老中松平伊豆守信明にあてた報告書。当時八王子千人同心であった小島文平(小島文平の先祖の善兵衛は小川村に住んで大庄屋を勤め、村内の人足を引き連れて玉川上水工事に参加していた)の書上をもとにしている江戸時代の書物。 |
| *4 |
悲しみ坂(悲しい坂) |
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玉川上水工事がこの坂まで達したとき、導水した水がこの地ですべて土へと染み込んでしまい、工事に関わった役人たちは失敗の責任を問われて処刑された。その際に役人が「悲しい」と嘆いたことから「悲しみ坂」の名が付いた。 |
| *5 |
上水記(じょうすいき) |
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幕府普請奉行上水方の石野遠江守広道が1788年(天明8年)から1791年(寛政3年)にかけて編纂し、徳川幕府第11代将軍家斉ならびに老中松平定信に提出した江戸上水についての記録。三代目玉川庄右衛門・清右衛門によって1715年(正徳5)に書かれた書状に典拠している。 |
| *6 |
三多摩地区(さんたまちく) |
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現在の多摩地域(地方)のこと。東京都のうち23区と伊豆諸島・小笠原諸島を除いた市町村部を指す。 |
| *7 |
蝶型弁(ちょうがたべん) |
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弁内に設けられた円盤が水の流れで回転することにより開閉する。バタフライバルブともいう。 |
| *8 |
清流復活事業(せいりゅうふっかつじぎょう) |
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水量が減少したり枯渇した河川や用水路に、下水道局の水再生センターの高度二次処理水(下水を濾過しオゾン処理した再生水)を流すことで、河川や用水路の清流を復活させること。 |
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