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川幅いっぱいの蛇籠堰から現在の姿へ |
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二ヶ領宿河原堰 (左岸:狛江市水神下/右岸:川崎市多摩区宿河原) |
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「二ヶ領宿河原堰」を人物に例えるならば、まさに波瀾万丈とも言える人生を歩んできたと言えるでしょう。自身も次々と姿を変え、周囲では災難が絶えなかったようにも思えます。
やっと落ち着きを取り戻した今、傍らの丘の上に建つ「二ヶ領宿河原堰管理所二ヶ領せせらぎ館」と共に、今も働き続ける「二ヶ領宿河原堰」。その誕生から現在までの歴史を振り返ってみましょう。
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左岸からみた「二ヶ領宿河原堰」/二ヶ領せせらぎ館/大正初期の蛇籠堰/昭和24年に完成した旧「二ヶ領宿河原堰」/二ヶ領用水 (写真-H17.1撮影)
| 自然流入から蛇籠(じゃかご)堰へ |
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「二ヶ領宿河原堰(にかりょうしゅくがわらぜき)」とは、多摩川右岸側の最下流にある利水施設で、ここから取水された多摩川の水は「二ヶ領用水」へと分水されます。「二ヶ領用水(にかりょうようすい)」は多摩川の右岸、「六郷用水[*1]」は左岸の灌漑用水として、小泉次太夫[*2]によって慶長2(1597)年から約15年の月日をかけて開削されました。
この頃、二ヶ領用水の取水口、「宿河原(しゅくがわら)」と「上河原(かみがわら)」付近は豊かな水が流れていたため、自然流入の状態で取水し、稲毛・川崎領の60ヶ村1876町歩(1875ha)を灌漑していました。洪水がおきて川の流れが移動したり、水量が少ない時は、一部に蛇籠[*3]を並べて対応していました。
両貯水池と、羽村取水堰、上河原・宿河原堰の関係
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しかし、二ヶ領用水に潤されて水田が増え、流域が豊かになる反面、今度は水不足という問題が発生します。そしてこの水不足に拍車をかけるのが、大正2(1913)年に始まった「第一次水道拡張計画」です。
人口が増え続ける東京の飲み水を確保するために、「村山・山口両貯水池[*4]」が建設され、「羽村取水堰[*5]」が改築されたことによって、多摩川からの取水が増えました。そして羽村取水堰より下流の用水は、取水口の新設や改修工事を競って行い、より多くの水の獲得へと努力するようになっていったのです。
二ヶ領用水の水利費
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この多摩川の流量減少に加え、江戸時代頃から大規模に行われていた砂利採取[*6]による河床低下の為、川幅全体に何段も蛇籠を重ね、川の水を堰き止めなければ取水できなくなりました。(*上部写真「3.大正初期の蛇籠堰」参照) これが二ヶ領宿河原堰の始まりです。
蛇籠は本来、出水時には流されても仕方がないものとして設置されていたのですが、数が増えるとその被害も増大し、蛇籠の復旧などに掛かる維持修繕費は大正9(1920)年から昭和10(1935)年の16年間で約10倍になっています。
| 蛇籠堰からコンクリート堰へ |
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昭和2(1927)年、神奈川県は、二ヶ領用水の様々な問題を解消するため「二ヶ領用水改良事業」を計画します。
しかし昭和8(1933)年、東京市でも小河内ダム[*7]の建設を含めた「第2次水道拡張事業計画」が持ち上がり、多摩川の水を巡る争いは混乱を極める一方でした。東京市と神奈川県は話し合いを重ね、ようやく妥協にこぎつけた昭和11(1936)年、「二ヶ領用水改良事業」は用水路工事から第一歩を踏み出します。
「二ヶ領用水改良事業」には、二ヶ領用水と密接な関係にある多摩川右岸の支川「平瀬川」「三沢川」の改修事業や、宿河原・上河原両堰のコンクリート化などの改築も含まれていました。一時的な蛇籠堰を永久的なコンクリート堰にする事によって、年々増加する維持修繕費の軽減を図ろうとしたのです。
しかしこの工事は順調には進みませんでした。
昭和12(1937)年、日中戦争勃発。鉄筋・セメントなど資材の値上がりや、軍需工場の増加よる工事予定地価格の暴騰による予算不足、出征による人手不足などによって工期は延びる一方でした。
東京の取水状況
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さらに、工事の柱の一つであるコンクリート堰への改造が実施される段階になると、東京との関係が再び悪化します。
この頃、東京市は宿河原と上河原両堰の中間から、六郷用水と狛江浄水場、宿河原堰の下流では、砧上・砧下・玉川の3つの浄水場への取水を行っていた為、両堰がコンクリートになって安定した取水が行われるようになると支障が生じると考え、これに反対したのです。そして出されたいくつかの条件を神奈川県がのむ形で解決、昭和16(1941)年3月から上河原堰の改造工事に着手、昭和20(1945)年6月1日に完成しました。
上河原堰完成後の8月15日、第二次世界大戦が終わりを告げましたが、戦禍による水道施設の被害は甚大なものでした。東京の給水人口が戦前の590万人から半分以下の230万人にまで減少したにもかかわらず、漏水が至るところで発生していた為、配水量はほとんど変わりませんでした。
そんな中、宿河原堰の改造工事は、米占領軍からのセメントの特別支給によって進められていましたが、昭和23(1948)年2月、突如セメントの支給停止命令が出されました。東京都水道局が米占領軍に陳情したためです。神奈川県は直ちに東京都と交渉、暫定協定を締結し、工事の続行が許可されました。
そしてようやく昭和24(1949)年5月5日、宿河原堰が完成(*上部写真「4.昭和24年に完成した旧二ヶ領宿河原堰」 参照)。二ヶ領用水組合は、昭和20(1945)年以来中断していた取水を再開しました。
| 戦後の混乱と水不足 |
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コンクリートの二ヶ領宿河原堰完成からわずか一週間後の昭和24(1949)年5月12日、米占領軍から突然の取水停止命令が下されました。
この頃、多摩川の流域各地では水不足に見舞われ、特に下流にある羽田空港や、米占領軍の施設では充分な給水が受けられない状況でした。米占領軍は東京都水道局に対し、再三にわたって給水の確保を要請していましたが、原水の不足はどうにもならない事でした。そんな時、宿河原堰が完成し、二ヶ領用水への安定した取水が再開された為、取水停止命令が下されたのです。
当時、米占領軍の命令は絶対でしたが、取水停止は二ヶ領用水流域にとっても死活問題であるため、神奈川県は米占領軍総司令部などに実情を訴えました。それによって事態の深刻さをようやく知った当局は、両都県知事・二ヶ領用水関係者・東京都水道局ならび建設省[*8]河川局長を招集し、河川局長の仲介で速やかに協定を結ぶことを命じました。
そしてわずか25日間という異例の早さで協定が成立、二ヶ領用水は再び取水を始める事ができました。
| 大水害の要因に |
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昭和20(1950)年代の中頃から、日本経済は飛躍的に成長をはじめ、高度成長期へと入ります。
かつて田畑が広がっていた多摩川流域にも、道路や住宅が次々と建設され、緑は急速に失われていきました。昭和の初めまで、近郊の人が訪れて鵜飼い[*9]を楽しみ、子どもたちが泳いで遊んだ多摩川も汚染が進みました。農地を潤す灌漑用水だった二ヶ領用水も、都市河川へと姿を変え、昭和46(1971)年、1級河川[*10]の指定を受けました。
狛江水害のようす
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昭和49(1974)年9月1日。
台風16号の影響で、多摩川の上流部に降り続く雨が激流となって流れ落ち、水位は急速に上昇しました。その激流が二ヶ領宿河原堰に妨げられ、狛江市猪方地先の堤防を破壊、19戸の民家が流されるという大災害「狛江水害[*11]」が発生します。
幾多の困難を乗り越えてコンクリート制になった二ヶ領宿河原堰でしたが、このコンクリートの固定部が、大災害の要因の一つとなってしまったのです。
2年後の昭和51(1976)年、家を流された方々を始めとする原告が、国を相手取って損害賠償を請求し「多摩川水害訴訟」がはじまります。裁判は16年にわたりましたが、平成4(1992)年、原告側の勝訴が確定、結審となりました。
二ヶ領宿河原堰の「魚道」
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平成5(1993)年5月28日、建設省は「多摩川河道検討委員会」を設置、堰管理者の川崎市、河川管理者の建設省京浜工事事務所[*12]、大学など関係機関や地域住民団体の方々などと、2年間に9回の委員会を開き、二ヶ領宿河原堰の改築方法などの検討をくり返しました。
そして、固定部が洪水時に流れる水を阻害しないよう、起伏式5門、引上式1門の可動堰へと、再び生まれ変わることになったのです。(*下部「二ヶ領宿河原堰諸元表 」 参照)
その際、魚道[*13]も1箇所から3箇所へと増設されることになりました。多摩川は、平成3(1991)年「魚がのぼりやすい川づくり推進モデル事業」の第1号に指定されていたためです。
| 再び生まれ変わる二ヶ領宿河原堰 |
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平成7(1995)年、新しい二ヶ領宿河原堰の工事が着工となりました。
着工してまもなくの平成8(1996)年、「川崎・水と緑のネットワーク[*14]」から京浜工事事務所長あてに「二ヶ領用水・宿河原堰管理棟の改築に伴う施設計画とその運営についての要望」が提出されました。その要望を踏まえてつくられる事になったのが「二ヶ領宿河原堰管理所・二ヶ領せせらぎ館[*15]」(*上部写真「2.二ヶ領せせらぎ館 」 参照)です。施設の備品や内装に至るまで市民の方々と話し合いを重ね、管理所の一部を展示室や資料室として解放する事、バリアフリーの屋外トイレを設置する事などが決まりました。
H11.3.27のようす
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平成11(1999)年3月、二ヶ領宿河原堰完成。これが現在の姿です。
3月27日には市民団体と共同で堰完成記念式典が開催され、3,000人を越える上下流・左右岸の市民団体が集まって、様々なイベントを開催、河川敷が人で埋めつくされました。
そしてその式典に合わせ、二ヶ領用水取水口の対岸、左岸側の狛江市猪方地先の高水敷には、狛江水害の教訓を後世に伝えるため「多摩川決壊の碑[*13]」が建立され、除幕式が行われました。

大正の初めは川幅いっぱいに並べた蛇籠堰、昭和24(1949)年にはコンクリートの固定堰、そして平成11(1999)年には可動式のゲートを備えた堰へと姿を変え、現在も働き続ける「二ヶ領宿河原堰」。
そしてそこから取水される「二ヶ領用水」は本来の役割を終えていますが、今なお多摩川の水が供給され、憩いと安らぎを与える「環境用水」として活躍を続けています。
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