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より正確な分水を果たした |
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「二ヶ領用水 円筒分水」 (神奈川県川崎市高津区久地1) |
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木製の水門から、幾重にも広がる円筒形へ・・・。
姿を変えた背景、そして二ヶ領用水をめぐる歴史とはいかなるものだったのでしょうか。
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二ヶ領用水円筒分水/平瀬川と交わる二ヶ領用水/円筒分水から分かれる流れ/内側と外側の円筒/堀の灌漑面積にあわせた仕切 (写真-H17.1撮影)
多摩川で最古の農業用水
円筒分水が分水していた「二ヶ領用水」は、徳川家康の命を受けた小泉次太夫(こいずみじだゆう)が、慶長2(1597)年から約14年の歳月をかけて開削した、多摩川で最も古い農業用水路です。
稲毛領17ヶ村と川崎領23ヶ村を結ぶ全長32kmの用水路は、60ヶ村2007町4反9畝4歩(およそ19,63km2。多摩川流域の約1%です。)の水田を潤し、米の収穫量を飛躍的に伸ばしました。
多摩川からの取水口は、中野島・宿河原(川崎市多摩区)の2箇所で、そこから久地(川崎市高津区)までに5箇所の用水堀に分水されていました。
更に久地からは「分量樋(ぶんりょうひ)」によって、「溝口久地用水堀」「川辺用水堀」「根方用水堀」「川崎・中稲毛堀」の4つに分水され、末流の鹿島田(川崎市幸区)地内までに7ヶ所の堰が設けられていました。
この二ヶ領用水を分水していた久地の「分量樋」が現在の「円筒分水」の前身です。
分量樋とは、堰から溢れ出る流れを、木製の樋(水門)で分水する施設で、それぞれの灌漑面積に合わせて、水路の入口の幅が決められていました。
しかし、日照りなどで用水の流量が変わり水位が変化すると、分水される流量の比率も変わってしまうなど、実際には正確な分水は難しく、上流と下流の水争いはさけられませんでした。
溝口村水騒動
二ヶ領用水の開削によって豊かになった流域ですが、水田が拡大すると共に水不足が深刻となり、水騒動も頻発するようになります。
中でも二ヶ領用水史上最も大きな事件である「溝口村水騒動」が、流末にある川崎領の農民1万数千人によって引き起こされます。
時は文政4(1821)年。
この年は春から日照りが続き、異常な旱魃(かんばつ)に見舞われていました。
川崎領内にはいっこうに二ヶ領用水の水が届かず、稲の根付けはおろか、毎日の飲料水にも事欠く状態が続き、農民たちは公平な用水の分配を御普請役人に訴えました。
訴えを受けた役人が調査したところ、溝口村の名主七右衛門と久地村の百姓たちが、自村に水を確保するため、川崎領に流れる堰を不法に止めたばかりでなく、水番人を追い払うなどの妨害を行っていた事がわかったのです。
7月6日早朝の川崎領。
村名を染め抜いたのぼり旗を立て、手に手に竹槍や鳶口[*1]を持った農民たちは、医王寺(川崎市川崎区)の鐘を合図に、久地分量樋めがけて殺到、名主七右衛門宅を襲撃し、隣家2軒をも打ち壊しました。
しかし七右衛門の不在を知った農民たちは、出張先の江戸馬喰町の御用屋敷まで押しかけ、激しく責め立てるという大事件に発展したのです。
これに対し幕府は厳重な取り調べを行い、最初に医王寺の鐘をついた川崎領大師河原村の農民粂七には十里四方の追放[*2]、溝口村名主七右衛門には所払い[*3]の厳罰を与え、この騒動に対し十分な監督取り締まりができなかった幕府の下役人にもそれぞれ処罰を与えたのです。
更なる水不足へ
幕府の裁決によって、溝口村水騒動はなんとか落ち着きを見せましたが、稲作水田農業を中心とした村々では、まさに「水かけ論[*4]」「我田引水[*5]」という言葉に示されるような、大小さまざまな水騒動や争いが絶えず起きていました。
大正2(1913)年、東京の水不足解消のために始まった「第1次水道拡張計画」が、二ヶ領用水流域の水不足に更なる拍車をかけます。
村山・山口両貯水池の建設、羽村堰の改築が行われ、多摩川からの取水量がが増加、これに伴い羽村堰以下の各用水でも競って取水する結果となり、多摩川の流量は急激に減少しました。
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加えて、この頃盛んに行われていた砂利採取での川床の低下によって、多摩川の用水の中で最下流の二ヶ領用水は、今まで取水口近くの一部に竹蛇籠を並べる程度で十分取水できていたものが、川幅全体に何段も蛇籠を重ねた堰を設けなければ取水出来ない状態にまでなっていたのです。
この竹蛇籠を積み上げた堰(後のコンクリート製の二ヶ領宿河原・上河原堰。)は、出水の度に流され、修復にかかる人手や費用もかなりのものでした。
一方、工業地帯の発展に伴う急激な都市化によって流域の農地が減少し、残った農家も重い引水費用の負担から逃れるため、水を多く必要とする田から畑地へと転換していきます。
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宿河原堰取入れ口の蛇籠堰
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このような状況下、二ヶ領用水組合は、水不足が要因となる堰などの維持管理費の増大と、水田面積の減少による組合費の減少によって、かつてない深刻な問題に直面する事となるのです。
二ヶ領用水改良事業
二ヶ領用水の様々な問題を解消すべく、昭和2(1927)年、神奈川県は「多摩川右岸農業水利事業」のため調査に乗り出します。
調査がほぼ終わりに近づいた昭和8(1933)年、東京市は小河内ダムの建設を含めた「第2次水道拡張事業計画」の協議を神奈川県に申し入れました。
これによって事態は急変、強く計画に反対した神奈川県と東京市の水利紛争が始ります。
水利紛争が、ようやく妥協をみるのは昭和11(1936)年、その条件とは、灌漑期、多摩川の羽村堰からの流れを毎秒2m3とする事、東京市は二ヶ領用水改修費の保証金として153万円程を支払う事でした。
そしてこの年、神奈川県は「多摩川右岸農業水利改良事務所」を設置、二ヶ領用水と密接な関係をもつ小支河・平瀬川・三沢川の改修も含めた「二ヶ領用水改良事業」の具体的な第一歩を踏み出しました。
工事の主な概要は、
| 1. |
上河原・宿河原の両堰を蛇籠堰からコンクリート堰に改造し、維持修繕費の軽減を図る。 |
| 2. |
分量樋から下流の用水流路を改め、コンクリート水路にすると共に、水位を高めて分水をしやすくする。 |
| 3. |
分水施設の算定をしなおし、コンクリート造りの施設にする。久地分量樋は、直径16mの円筒分量樋とする。 |
| 4. |
水路は統廃合を行い取水の円滑化を図る。また土質不良箇所などはコンクリート造りとする。 |
| 5. |
用水の上流地域で悪水になった水を再利用するため、3本の再利用水路を開削する。 |
というものでした。
円筒分水の誕生
昭和16(1941)年、計画の1部としていよいよ久地分量樋もコンクリート製の「円筒分水」として生まれ変わります。
二ヶ領上河原・宿河原の両堰と合わせ、この施設の設計・建築を行ったのは「多摩川右岸農業水利改良事務所」の所長を務めていた平賀栄治氏で、彼はまず、大雨になると二ヶ領用水に流れ込み、たびたび洪水を引き起こしていた平瀬川が、多摩川へ流れ込むように流路を変更します。
更に、平瀬川と二ヶ領用水が交差する地点で、平瀬川の下に2本のコンクリート管を通し、二ヶ領用水を潜らせました。
円筒分水の仕組み
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コンクリート管を通って流れてきた用水は、(1)円筒分水中央の円筒から噴水のように噴き上り、(2)その波立った水面の乱れを、内側の直径8mの円筒が整水壁となって押さえます。
そして、(3)4つの堀の灌漑面積に合わせて仕切られている(川崎堀:38.471m/六ヶ村堀2.702m/久地堀1.675m/根方堀7.415m)、直径16mの外側の円筒に流れ込み、(4)それぞれの仕切から溢れた水が、各堀へと流れていきます。
用水の流量が変化しても、常に一定の比率で分水されるこの仕組みは、当時最も理想的かつ正確な自然分水装置の一つと言われ、各地でつくられた円筒分水の初期の例として大変貴重なものとなったのです。
円筒分水完成から8年後の昭和24(1949)、日中戦争[*6]の混乱期に行われた「二ヶ領用水改良工事」は、鉄筋・セメントなどや土地価格の暴騰や、労務不足などで遅延しながらも、約12年の歳月を経て完成となりました。

その後、川崎は工業都市として更なる発展をとげ市街地化の進んだ流域で、農業用水である二ヶ領用水はほぼ役目を終えましたが、現在では市民の憩いの散歩道として川崎市によって整備され、環境用水として新しい姿を見せています。
また、その二ヶ領用水を分水していた「円筒分水」は、平成10(1998)年6月9日、国の有形文化財に登録され、その歴史ある美しい姿が大切に保護されています。
| *1 |
鳶口(とびぐち) |
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・・・ |
棒の端にトビのくちばしのような鉄製の鉤をつけたもの。物をひっかけて運んだり壊したりするのに用いる道具。 |
| *2 |
十里四方の追放(じゅうりしほうのついほう) |
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・・・ |
江戸時代の追放刑。日本橋から四方五里以内立入禁止。在方の者は居住地の村も立入禁止。 |
| *3 |
所払い(ところばらい) |
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・・・ |
在方の者はその居村、江戸および市街地の者は、その居町から追放。 |
| *4 |
水かけ論(みずかけろん) |
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・・・ |
(日照りの時、百姓が互いに自分の田へ水を引き込もうとして荒らそうことから)双方が互いに理屈を言い張って、はてしなく争うこと。 |
| *5 |
我田引水(がでんいんすい) |
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・・・ |
(自分の田へ水を引く意)。物事を、自分の利益となるように引きつけて言ったり、したりすること。 |
| *6 |
日中戦争(にっちゅうせんそう) |
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昭和12(1937)年7月7日、廬溝橋(ろこうきょう)事件を契機とする日本の中国侵略戦争。長期戦化し、昭和16(1941)年12月太平洋戦争に発展。日支事変。日華事変。 |
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