[先人No.7] 晩年を多摩川にささげた
平賀栄治
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平賀栄治は、常に現場で生きる農業土木技術者[*1]として、各地を飛び回りました。
48歳からは、多摩川の為にに全ての情熱を費やし、世界に誇る「二ヶ領用水円筒分水」の設計も手がけています。
世界の農業土木を手がけた技術者
平賀栄治(ひらがえいじ)は、明治25(1892)年12月17日、山梨県西山梨郡大宮村字山宮(現在の山梨県甲府市山宮町)に、若月代蔵の次男として生まれました。
大正4(1915)年7月、22歳の栄治は平賀浅吉の次女・はな子と結婚、婿養子となり姓を平賀と改めました。
同年10月、東京農業大学の農業土木学科を修業した栄治は、この大学の助教授・上野英三郎[*2]に認められ、宮内省・帝室林野管理局(現・林野庁)農務課の雇員に推薦されます。そして2年間設計技手補として、当時の御料地・釧路の弟子屈村(てしかがむら)開拓事業に従事しました。
大正10(1921)年10月、官制の改正によって農務課が廃止、庶務課への統合が決まると、上野から農商務省(現・農林水産省)勤務を命じられました。しかし、中央官庁での勤務より現地で技術者として働くことを選んだ栄治は、これを辞退したのです。
ところが間もなく、上野から再び打診がありました。その打診された任務とは、北海道・空知川(そらちがわ)の全流を取水した新運河の開削と、石狩川左岸一帯の開発という、当時最大にして難事業の担当技術者でした。決して条件の良い待遇ではないこの任務を受託した栄治は、昭和11(1992)年3月宮内省を辞職、北限の地でまさに寝食を惜しんでこの事業を成し遂げました。
その後も栄治は技術士として、北海道や岩手県、更には朝鮮にも渡り、数々の工事を手がけました。そして昭和13(1938)年、奈良県の「大和平野東南部水利改良事務所」に勤務、翌年起きた寺川氾濫による災害復旧を行っている最中、電報で神奈川県への転任が知らされたのです。
多摩川右岸の改修
昭和15(1940)年2月23日、48歳の栄治は「多摩川右岸農業水利改良事務所」の所長に抜擢されました。
この事務所は、昭和2(1927)年に始まった「多摩川右岸農業水利事業[*3]」の為に設置されていましたが、当時事業は暗礁に乗り上げていました。
着任後、すぐに現地視察を行った栄治は、同行した耕地課長に「この川(多摩川)から取水中の、往年来の取水堰(上河原・宿河原堰[*4])の改修工事が君の任務だ。もし、この川を征服出来ないなら辞めてもらうぞ。」と釘を刺されました。しかし、この事業に関しては、東京都からいくつかの厳しい条件が出されていたのです。
まず、最も難工事が予想される上河原堰の改修に取り組んだ栄治は、多摩川の水流はもとより、地下を流れる伏流水(ふくりゅうすい)や、その下にある不透性地層、また流域の地質に至るまで、現場をくまなく調査しました。これは、下流で取水していた伏流水を、堰で阻止してはならないという、東京都からの条件の一つをクリアするためのものでした。
自らの足で多摩川の水流や伏流水の特徴をつかんだ栄治は、堰堤の基礎を川底の不透性地盤まで打ち込まない「浮き堰堤(うきえんてい)」または「透過堰堤(とうかえんてい)」と呼ばれる構造の堰を設計しました。
この設計は東京府との協議を通過、昭和16(1941)年6月19日、宿河原堰の工事が始まりました。
栄治が次に取り組んだのは、多摩川の支川、平瀬川と三沢川の排水改修工事でした。大雨が降ると二ヶ領用水に流れ込み、洪水を引き起こしていた二河川を、二ヶ領用水から切り離し、多摩川に流れ込むように水路を切り替えるのがこの工事の課題でした。
しかしこの計画の実現には、まず用地買収をする事が必要でした。栄治は、28人の地主を一人一人訪ね、説得活動を行いましたが、計画水路用地の約10分の1を所有する地主が最後まで買収に応じませんでした。
栄治はこの地主の元へ10日間通い続け、ついには応諾を取り付けましたが、それには3日以内に買収金を支払う事という条件が付けられたのです。この買収金には、自分の貯金を充てたと言われています。
こうして用地買収が終わると、平瀬川から改修を始め、この時「二ヶ領用水円筒分水[*5]」も考案します。
これまで「分量樋」と呼ばれていたこの施設は、数々の水争いの原因となっていましたが、栄治の手で、画期的な分水施設に生まれ変わったのです。この構造は高く評価され、現在もニューヨーク市立図書館に関係資料が展示されています。
昭和17(1942)年、平瀬川の改修工事が終わると、翌年からは三沢川の改修に取り組みました。
この頃一層激しくなっていた太平洋戦争の影響で、作業員となる男子はことごとく戦地へ応召、工事は学徒動員によって進められました。昭和20年春、三沢川の改修が終わると、やがて戦争も終わりますが、終戦直後に始まった宿河原堰の改修にも、食糧難や人手、物資の不足は大きな影響を与えたのです。
なかでも最も入手困難だったのがセメントです。しかも、このセメント工場で働く工員たちは、食糧難によって体力が減退し、十分な労働が出来ない状態でした。
宿河原堰の工事自体も当然人手不足だった為、農民が交代で作業にあたっていました。栄治はこの中から数名を引率して、セメント工場の応援に駆けつけました。
工場での作業は午後8時から朝まで行われる為、栄治らは夜食の握り飯を持参していました。しかし工場の工員たちは誰一人夜食の用意がなかったのです。そこで持参した握り飯と、自分の弁当を半分差し出し作業を続けたそうです。
昭和24(1949)年6月、まさに激動の時代をぬって行われた「二ヶ領用水改良事業」が、約12年の歳月をかけて完了しました。
爆破された宿河原堰
昭和49(1974)年9月1日夜、接近する台風16号の影響で多摩川上流域には激しい雨が降り続いていました。次第に上昇し激流となった多摩川の水は、栄治が設計した二ヶ領宿河原堰を迂回し、左岸側の堤防を侵食していきます。
21時45分、ついに堤防が決壊、民家が流出を始めると、自衛隊と建設省(現・国土交通省)は、堰に突破口を開けるため、計13回にわたって堰を爆破しました。
一連の様子はテレビで放映され、人々の目を釘付けにしました。その中の一人に、82歳の栄治もいたのです。栄治は爆破の瞬間、「何をするか!爆破程度で壊れる貧弱な施工はしていない。農民たちの汗を熱意で固めた堰堤なんだ。」と叫んだそうです。
この「狛江大水害[*6]」の原因は、誰の目にも宿河原堰にあると映りましたが、栄治は新聞のインタビューにこうコメントしています。「取水堰は無罪だ。堤防決壊の原因は国の甘い河川行政にある。・・・」原因は堰でなく、あの程度の出水で壊れる堤防を放置した国の管理体制が悪いと言い切ったのです。栄治はその後もテレビに出演し、この考えを話しています。
これらは大きな反響を呼び、多くの世論は栄治の意見に賛成するものでした。
9月10日、建設省は「多摩川災害調査技術委員会」を設置、この災害の原因究明にあたりました。そして昭和50(1975)年7月、結果が報告書にまとめられると、新聞の一面には「多摩川決壊やはり人災。犯人は高すぎた堰。設計ミス。被災者、訴訟手段も」という記事が掲載されるのです。
執念の調査
栄治は、自ら執念の調査に乗り出しました。
かつて、この地をくまなく歩いて調査した栄治ですが、再び周辺の詳細な地形を調べ、現場へ足を運びました。そして、かつて自然の遊水地となっていた箇所が埋め立てられ、住宅が建ち並ぶ様子を目にしたのです。
栄治はこれらの調査結果をまとめ、昭和51(1976)年8月には論文「多摩川から取水する農業用水取入えん堤について」を、次いで11月には「河川法第54条第55条[*7]について」を発表、これらは農業土木関係の機関誌に掲載されます。
更に昭和54(1979)年2月には、「多摩川裁判判決と農業用河川工作物の安全確保」を書き上げましたが、ついにこの論文が公になる事はありませんでした。
そしてこの最後の論文を書き上げた3年後の昭和57(1982)年、89歳の栄治は脳卒中で倒れ、そのまま息をひきとりました。
| 年号 |
西暦 |
月.日 |
年齢 |
略歴 |
| 明治25 |
1892 |
2.17 |
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山梨県西山梨郡大宮村字山宮で、若月代蔵の次男として誕生 |
| 大正4 |
1915 |
7 |
23 |
平賀浅吉の次女・はな子と結婚し婿入り。姓が平賀となる。 |
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宮内省帝室林野管理局農務課雇員 |
| 大正11 |
1922 |
3 |
30 |
宮内省を退職 |
| 4.11 |
北海道・空知川の全流を取水した新運河の開削、石狩川左岸一帯の水田開発を行う。 |
| 昭和3 |
1928 |
11 |
36 |
北海道紋別郡滝上村の新田開発を行う。 |
| 昭和8 |
1933 |
9.15 |
41 |
農商務省県内務部耕地課に勤務。岩手県佐内村の耕地整理の更正を行う。 |
| 昭和11 |
1936 |
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44 |
朝鮮全羅南道宝城里の開拓を行う。 |
| 昭和13 |
1938 |
4.21 |
46 |
奈良県の農林技手に着任後、多武峰村の災害復旧を行う。 |
| 昭和15 |
1940 |
2.23 |
48 |
神奈川県に赴任。多摩川右岸農業改良事務所長に着任。多摩川右岸農業水利事業を行う。 |
| 昭和16 |
1941 |
3 |
49 |
「二ヶ領上河原堰堤」改修工事着工。 |
| 昭和20 |
1945 |
6 |
53 |
「二ヶ領上河原堰堤」完成。平瀬川・三沢川の改修工事着工。 |
| 春 |
平瀬川・三沢川改修工事完了。 |
| 昭和24 |
1949 |
6 |
57 |
二ヶ領宿河原堰堤の改修工事完了。多摩川右岸農業水利事業全て完了。 |
| 昭和45 |
1970 |
4 |
78 |
勳五等瑞宝章受賞。 |
| 昭和49 |
1974 |
11 |
82 |
妻はな子死亡。 |
| 昭和51 |
1976 |
8 |
84 |
論文「多摩川から取水する農業用水取入えん堤について」著す。 |
| |
論文「河川法第54条第55条について」著す。 |
| 昭和54 |
1979 |
2 |
87 |
論文多摩川裁判判決と農業用河川工作物の安全確保」著す。 |
| 昭和57 |
1982 |
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89 |
89歳の生涯をとじる。 |
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| *1 |
農業土木技術者(のうぎょうどぼくぎじゅつしゃ) |
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・・・ |
農業基盤の整備をはじめ道路・河川・上下水道などの専門知識を有する者。 |
| *2 |
上野英三郎(うえのひでさぶろう) |
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・・・ |
1872-1925年。忠犬ハチ公の主人公として有名な、日本農業土木・農業工学の創始者。明治38年から20年間、農商務省委託の農業土木技術員養成官として技術者の育成に努めた。 |
| *3 |
多摩川右岸農業水利事業(たまがわうがんのうぎょうすいりじぎょう) |
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・・・ |
昭和2(1927)年、神奈川県が設置した事務所。二ヶ領用水の改修に合わせ、それと密接な関係にある多摩川右岸の支川、小支川・平瀬川・三沢川も改修する「多摩川右岸農業水利事業」を行っていた。詳しくは、「多摩川の名脇役13.二ヶ領用水」をごらん下さい。 |
| *4 |
二ヶ領上河原堰・二ヶ領宿河原堰(にかりょうかみがわらぜき・にかりょうしゅくがわらぜき) |
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・・・ |
二ヶ領上河原堰:左岸・調布市染地、右岸・川崎市多摩区にある取水施設。詳しくは、「橋の写真館」をごらん下さい。
二ヶ領宿河原堰:左岸・狛江市水神下、右岸・川崎市多摩区宿河原にある取水施設。詳しくは、「橋の写真館」・「多摩川の名脇役11.二ヶ領宿河原堰」をごらん下さい。 |
| *5 |
二ヶ領用水円筒分水(にかりょうようすいえんとうぶんすい) |
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・・・ |
平成10(1998)年国の有形文化財に登録された施設。詳しくは、「多摩川の名脇役8.二ヶ領用水円筒分水」をごらん下さい。 |
| *6 |
狛江大水害(にかりょうようすいえんとうぶんすい) |
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・・・ |
昭和49(1974)年に起きた水害。民家19件が流出する被害にあった。詳しくは、「多摩川の名脇役10.多摩川決壊の碑」をごらん下さい。 |
| *7 |
河川法第54条第55条(かせんほうだい54じょうだい55じょう) |
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・・・ |
昭和40(1965)年に制定された河川法の中の「河川保全区域」に関する項目。河川保全区域とは、河岸または河川管理施設を保全する為に、河川管理者が指定した一定の区間の事。 |
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