川崎国道事務所・環境と人にやさしい「道」づくり
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二子玉川から溝口、荏田まで 大山街道 見どころマップ
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赤坂〜三軒茶屋 1A 1B 二子玉川〜荏田 3A 3B 長津田〜鶴間 5A 5B 厚木〜愛甲 7A 7B
三軒茶屋〜二子玉川 2A 2B 荏田〜長津田 4A 4B 鶴間〜厚木 6A 6B 愛甲〜大山 8A 8B
※地図上のポイント・宿名・イベント名等をクリックすると解説をご覧になれます
地図
二子玉川から溝口、荏田まで
 赤坂御門を発った大山街道は、渋谷・三軒茶屋・用賀をへて、多摩川の「二子の渡し」(冬は「仮橋」)を渡ります。幕府が江戸攻略を恐れて架設許可をしなかったためです。渡しを渡って少しばかり行くと「溝口・二子宿」に出ます。街道沿いに商店が軒を連ねています。二子名主大貫家や溝口の問屋丸屋など、上方から「下り荷」と共に、伊豆の乾魚、椎茸、駿河の茶、真綿、秦野の煙草が集積され、出荷調整が行われている「物流センター」でした。この他、需要に応じて街道沿いの村々から、炭や薪、生鮮食品や醤油、油等が大山街道を上り、多摩川を下って江戸へ送られました。
 一方、“宵越しの金を持たない”今を享楽する江戸の庶民は、三々五々講を作って神仏への信仰のため、大山阿夫利神社の大山講、富士山への富士講、御嶽山への御嶽講、三峯山への三峯講など、江戸庶民の信仰と物見遊山、湯沼の旅が盛んになりました。最盛期は江戸中期−大山詣では宝暦年間(1751−64)で年間20万人が参詣しました。“伊勢参り”は年間100万人、日本人の15人に1人の割合で参加したといわれています。大山街道の要所要所に大山灯籠が建ち道標が、白装束の遠来の客を歓迎しました。
 大山街道の商店は情報交換の場で、買い物先の火鉢にあたりながら、世間話に花が咲きました。しかしながら、明治5年(1893)新橋−横浜間に街道に変わる鉄道が出来ると、急激に大山街道は寂れていきました。


溝口・二子宿
江戸日本橋から五里、相模矢倉沢へ十二里。上中下三宿に分かれ、寛文九年(一六六九)十二月溝口村は宿駅に指定され人馬継立を行った。後に二子村が分村独立すると二子村と月の半分ずつ宿役を勤めた。
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高津区民祭
写真
第1回は、昭和49年高津小学校をメインに納涼祭として盆踊り大会を開催しました。第2回からは、大山街道の二子橋から栄橋の間約1.5kmを主会場として開催し、第30回を迎えた平成15年には、約20万人が7月の最終日曜日に集いました。
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大山街道フェスタ
写真
平成16年2月に高津区の大山街道を、大勢の人に知らせ、訪れてもらい、活性化させることを目的として、大山街道活性化推進協議会の皆さんが開催しました。以降毎年2月に開催されています。
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1.二子の渡し
写真 多摩川は現在より水量が多かったため、夏の間は二子の渡しが出た。冬季は流れがふた筋になる程水量が減ったので、「仮橋」が掛けられた。渡しの乗り場は「暴れ川の多摩川」のため、絶えず変わっていた様である。
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2.「岡本かの子文学碑」と二子神社
写真 岡本かの子文学碑は昭和37年(1962)11月1日、建築家丹下健三の設計により建てられた。母かの子を追悼する岡本太郎作『誇り』、歌碑撰文は亀井勝一郎、川端康成の書によって、二子神社境内に建てられ、かの子の歌「年年にわが悲しみは深くして いよよ華やぐ命なりけり」の歌がある。
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3.光明寺
写真 慶長6年(1601)二子塚光明寺創建、寛永18年(1641)二子本村から矢倉沢往還筋に7軒百姓と共に移ってきた。幕府の命によるもので、光明寺の「時の鐘」が往還筋の村人に時を告げた。二子村名主大貫家の菩提寺で、かの子の兄大貫雪之助の墓がある。
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4.溝口神社
写真 元赤城社といわれ、溝口村総鎮守で、明治時代廃仏毀釈で宗隆寺と別れ『溝口神社』となった。明治29年(1896)に作られた祭礼用の幟は、勝海舟の筆になり『海舟安房』の文字も見える社宝であり例年正月、30人がかりで門前に建てられる。
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5.宗隆寺
写真 日蓮宗興林山宗隆寺。500年前は天台宗だった。宗隆寺のお会式は古くから行われていて、近隣や遠方の寺々から数多くの万灯が参加する『万灯練り供養』が行われ、大山街道溝口十字路から宗隆寺までの道程を、列を作って練り歩く万灯パレードが展開される。
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6.二ヶ領用水
写真 多摩川は天正17年(1589)頃北遷しほぼ現在の流れに変わり、小泉次太夫が稲城・川崎二領の灌漑用水開発奉行として登用され、二ヶ領用水の灌漑が始まった。二ヶ領用水と大山街道が交差するのは、溝口下宿の大石橋で文政4年(1821)溝口水騒動は橋際の名主丸屋で起きた。
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7.片町の庚申塔
写真 高さ185センチ、幅84センチ、奥行89センチの祠に安置されている。青面金剛が脚下に邪鬼を踏まえて立ち、右上手に宝輪、下手に弓、左上に三又戟、下手に矢を持っている。その下に庚申信仰の三猿が刻まれている。
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8.ねもじり坂
写真 大山街道はねもじり坂で旧道と新道に分かれる。旧道は昔からの坂。昔はもっと勾配がきつかったといい、別名「はらへり坂」と言った。今は新道が出来ていて「ねもじり坂」を迂回するように、穏やかな自動車道となっている。
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9.子育て地蔵
写真 笹の原16軒が講を作り、子のすこやかな成長を祈る「子授け地蔵」と「子育て地蔵」が建っている。本道の一番左には、昭和19年(1944)の久本の空襲で死亡した方々を弔う地蔵も建てられている。
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10.宮崎大塚
写真 高さ5.5m、径25mの方墳と推定されている。辺りと異なる墳丘の黒い盛り土は検討課題だが、発掘調査はされていない。武器を隠した塚とか、物見の塚など諸説の伝えがある。戦時中は陸軍東部62部隊の高射砲が置かれてかなり崩された。今は住宅の中だが、かつて畑中にあったこの塚は大山道を行き来する人々にとって目印だったという。
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