川崎国道事務所・環境と人にやさしい「道」づくり
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三軒茶屋から二子玉川まで 大山街道 見どころマップ
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赤坂〜三軒茶屋 1A 1B 二子玉川〜荏田 3A 3B 長津田〜鶴間 5A 5B 厚木〜愛甲 7A 7B
三軒茶屋〜二子玉川 2A 2B 荏田〜長津田 4A 4B 鶴間〜厚木 6A 6B 愛甲〜大山 8A 8B
※地図上のポイント・宿名・イベント名等をクリックすると解説をご覧になれます
三軒茶屋から二子玉川まで
 三軒茶屋から用賀に向かう大山街道は二本あります。右に向かう道が古く、この道はボロ市で有名な上町の世田谷代官屋敷前を通り、弦巻の追分では左の道へ。ここでは、かつて「左大山道、右登戸道」と道標が建っていました。その先、途中で大山道旅人の像や野中の地蔵を眺め、真っ直ぐな道が用賀に通じています。
 三軒茶屋から左の道を行くと、今も左側に旧道が一部残っております。この道は緩い上り坂をあがった所で本道に戻り、大山街道は環状七号線を越えて西に。駒沢の先から瀬田交差点に向かって一直線の新道が昭和30年代に開通していますが、大山街道は右に蛇行して桜新町を過ぎ、用賀の坂を下った所で上町から来た旧道と合流します。ここにあった道標は「右、江戸道、左、世田谷、四谷道」となっていました。大山街道は更に西へ、首都高速3号線の下、田中橋で谷沢川を渡り、しばらく行くと安永6年(1777)に建てられたお地蔵さん、道は又、ここで二本に分かれます。どちらの道も環状八号線を横断歩道で渡らなければなりません、右の道は急な慈眼寺坂を下り、左の道は稍ゆるやかな行善寺坂を下ります。丸子川(治大夫堀)を渡っていよいよ多摩川の河原。かつてここに二子の渡しがありました。大正から昭和の初期、清遊の地であった二子玉川は今、大ショッピングゾーンへと姿を変えつつあります。


6.用賀追分
写真 文政10年(1827)相模から江戸へ物資の輸送、人の往来も盛んとなって、この三叉路に道標を兼ねた庚申塔が建てられた。その両面には「右江戸道、左世田谷、四谷道」と字が刻まれていた。(現物は世田谷区の郷土資料館中庭に移設)
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7.真福寺
写真 永禄、元亀(1558〜72年)頃、小田原北条氏家臣飯田図書が開基したと伝えられる。大山道に面す山門が朱塗りだった為、赤門寺とも云われた。真言宗に属し、実相山真如院真福寺と称してきたが、近時、山号は喩伽山と改められた。
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8.延命地蔵
写真 相模に向かう大山道は、ここで二股に分かれる。安永6年(1777)用賀村の女念佛講中が建てたもの。右へ進む道の方が古く、慈眼寺の前の急坂を下る。左の道は行善寺前に進む。
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9.瀬田玉川神社
写真 寛永年間に創建された、御嶽神社のあった所。明治41年、村内にあった八幡神社、天祖神社、熊野神社等を合祀して瀬田村の村社、瀬田玉川神社となった。この崖下の急坂は古い矢倉沢往還(大山道)。
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10.治大夫橋
写真 江戸のはじめ、幕府の命により代官小泉治大夫が計画、開削した農業用水。今は丸子川となっているが、かつて、六郷用水、治大夫堀と呼ばれていた。その堀の上を渡る大山道の橋が治大夫橋。
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14.サザエさん通り
写真 大正時代に住宅分譲された桜並木で有名な桜新町。「サザエさん」の作者、長谷川町子さんが40年居住、その跡が長谷川町子美術館となって、今、駅から美術館へ向かう道はサザエさん通りと呼ばれている。
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15.田中橋
写真 田中橋下流で等々力渓谷を形成する谷沢川が流れているところで、往時、両側が田んぼだった為、この川の上を渡る大山道の橋は田中橋と呼ばれていた。今は首都高3号線が空を覆い、昔の面影はない。
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16.行善寺
写真 大正時代、小田原北条の直臣長崎隠岐守重高が当地に帰農、小田原の菩提寺を当地に移し、父の法号をとって行善寺とした。浄土宗で正式の名は獅子山西光院行善寺。境内からの眺望は素晴らしく、「行善寺八景」として版画に描かれている。
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17.調布橋道標
写真 ここの道標は、安永6年(1777)瀬田村の講中により六郷用水脇に建てられたもので、『南大山道、左・西、赤坂道、右・東、目黒道』となっている。この用水前の道は筏道、奥多摩へ帰る筏師たちが利用した。調布橋の名は新しい。
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18.二子の渡し
写真 二子の渡しは寛文9年(1669)、矢倉沢往還の継立村となった二子村が請け負っていたが、天明7年(1787)瀬田村にも渡し船の許可が下りた。ここは瀬田村にあった二ヶ所の発着所の一つ。大正14年(1925)二子橋ができ、その役目を終えた。
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