国土交通省 関東地方整備局 川崎国道事務所
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事務所の取り組み

  • 国道246号

    大山街道

    大山街道見どころマップ

    大山街道に点在する見どころや、周辺情報等が記載された「大山街道見どころマップ」です。 それぞれのエリアのリンク先からPDFファイルをご覧下さい。

    『天保改正御江戸大絵図』より赤坂御門周辺 『天保改正御江戸大絵図』より赤坂御門周辺(国立国会図書館デジタルアーカイブより)

    1,赤坂御門~三軒茶屋

    赤坂御門~三軒茶屋

     赤坂御門は、寛永13年(1636年)に筑前福岡藩主黒田忠之により桝形石垣が造られた後、寛永16年(1639年)に御門普請奉行の加藤正道、小川安則によって完成された門です。
     大山街道の起点はこの赤坂御門とする説が有力とされており、現在はその石垣を残すのみとなりましたが、江戸時代の大山詣りには欠かせない重要な出発地点でした。
     赤坂御門を出発して青山を過ぎると、渋谷の宮益坂に差し掛かります。往時の宮益坂は富士見坂と呼ばれ、その名のとおり富士山を眺めることができました。頂上付近の見晴らしのよいところには、牛や馬をつなぎ、一休みできる「立場茶屋」があったとされています。
     宮益坂、そして道玄坂を過ぎると、江戸から厚木までの四十八坂のうちでも大きな坂であった「大坂」があります。この大坂から北へ行くと甲州街道に出ることができました。大坂を下り少し行くと、道標(現在は氷川神社の境内に移されています)があり、かつては交通の要衝として栄えた場所で、道標には「大山道、右めぐろ・品川、左青山」などと彫示されています。
     赤坂御門から三軒茶屋までに残る多くの「坂」の名。道往く人々の苦労が偲ばれる起伏に富んだルートです。

    赤坂御門~三軒茶屋 1A[PDF:312KB]
    赤坂御門跡付近から表参道付近までです。
    赤坂御門~三軒茶屋 1B[PDF:1500KB]
    表参道付近から三軒茶屋付近までです。

    2,三軒茶屋~二子玉川

    三軒茶屋~溝口・二子

     三軒茶屋から用賀に向かう大山街道は二本あります。右に向かう道が古く、この道はボロ市で有名な上町の世田谷代官屋敷前を通り、弦巻の追分では左の道へ進みます。ここには、かつて「左大山道、右登戸道」と道標が建っていました。その先、途中で大山道旅人の像や野中の地蔵を眺め、真っ直ぐな道が用賀に通じています。
     三軒茶屋から左の道を行くと、今も左側に旧道が一部残っております。この道は緩い上り坂をあがった所で本道に戻り、大山街道は環状七号線を越えて西に。駒沢の先から瀬田交差点に向かって一直線の新道が昭和30年代に開通していますが、大山街道は右に蛇行して桜新町を過ぎ、用賀の坂を下った所で上町から来た旧道と合流します。ここにあった道標は「右、江戸道、左、世田谷、四谷道」となっていました。
     大山街道は更に西へ、首都高速3号線の下、田中橋で谷沢川を渡り、しばらく行くと安永6年(1777年)に建てられたお地蔵さん、道は又、ここで二本に分かれます。どちらの道も環状八号線を横断歩道で渡らなければなりません。右の道は急な慈眼寺坂を下り、左の道は稍ゆるやかな行善寺坂を下ります。丸子川(治大夫堀)を渡っていよいよ多摩川の河原に差し掛かります。
     かつてここには多摩川を渡る二子の渡しがありました。大正から昭和の初期、清遊の地であった二子玉川は今、一大ショッピングゾーンへと姿を変えています。

    三軒茶屋~二子玉川 2A[PDF:341KB]
    三軒茶屋付近から桜新町付近までです。

    三軒茶屋~二子玉川 2B[PDF:2083KB]
    桜新町付近から二子玉川付近までです。

    3,二子玉川~荏田

    溝口・二子~荏田

     赤坂御門を発った大山街道は、渋谷・三軒茶屋・用賀をへて、多摩川の「二子の渡し」(冬は「仮橋」)を渡ります。幕府が江戸攻略を恐れて架設許可をしなかったため、渡し場が設けられていました。渡しを渡って少しばかり行くと「溝口・二子宿」に。街道沿いには多くの商店が軒を連ねています。二子名主大貫家や溝口の問屋丸屋など、上方から「下り荷」と共に、伊豆の乾魚、椎茸、駿河の茶、真綿、秦野の煙草が集積され、出荷調整が行われている「物流センター」としての役割をはたしていました。この他、需要に応じて街道沿いの村々から、炭や薪、生鮮食品や醤油、油等が大山街道を上り、多摩川を下って江戸へ送られました。
     一方、“宵越しの金を持たない”と言われるほど今を享楽する江戸の庶民たちは三々五々講を作って神仏への信仰のため、大山阿夫利神社の大山講、富士山への富士講、御嶽山への御嶽講、三峯山への三峯講など、江戸庶民の信仰と物見遊山、湯沼の旅に出かけました。最盛期は江戸中期-大山詣では宝暦年間(1751年-64年)で年間20万人が参詣したと言われています。“伊勢参り”は年間100万人、日本人の15人に1人の割合で参加したといわれています。大山街道の要所要所には大山灯籠や道標が建てられ、白装束の遠来の客を歓迎しました。
     大山街道の商店は情報交換の場で、旅人たちは買い物先の火鉢にあたりながら、世間話に花が咲かせていたことでしょう。しかしながら、明治に入り鉄道が敷設されていくと、急激に大山街道は寂れていくこととなりました。

    二子玉川~荏田 3A[PDF:422KB]
    二子玉川付近から宮崎台付近までです。

    二子玉川~荏田 3B[PDF:333KB]
    宮崎台付近から荏田付近までです。

    4,荏田~長津田

    荏田~長津田

     川崎市宮前区有馬を過ぎると、尾根道の入口から横浜市内に入ります。尾根の最頂部からは富士山や大山を含む丹沢山系が一望でき、「立場茶屋」がありました。尾根道を下り、早淵川を渡ると荏田宿となります。
     横浜市域の大山道には荏田宿と、更に2里の距離をおいて長津田宿との二つの宿場が置かれ、それぞれに問屋の他に旅篭屋や商家が並び、馬継場の機能を有していました。道中の道幅は市が尾村付近で8~9尺、(2.5m程度)とされ、川間橋(三文橋)で鶴見川(谷本川)を渡り、景色の良い現在の柿の木台に茶店が二軒、また恩田川の手前にも茶屋があったことが知られています。
     また、現在の藤が丘駅や青葉台駅周辺の賑わいからは想像も出来ませんが、藤が丘附近からしらとり台附近の間は「谷本原」と呼ばれる寂しい林の中の山道で、昼間から追いはぎが出没したとも伝えられています。
     恩田川を渡り、長津田宿を過ぎると、大山道は曲折しながら丹沢山系や町田市を一望できる「馬の背」を過ぎ、やがて東京都町田市鶴間となります。

    荏田~長津田 4A[PDF:822KB]
    荏田付近から藤が丘付近までです。

    荏田~長津田 4B[PDF:333KB]
    藤が丘付近から長津田付近までです。

    5,長津田~鶴間

    長津田~鶴間

     大山街道は長津田を過ぎると再び国道246号に合流します。そのまま西へ向かうと町田辻の交差点で、旧大山街道と国道とに分岐します。ここからしばらくの区間は、旧道を楽しむ旅が味わえます。
     圓成寺(えんじょうじ)は、天正時代(1573年~92年)には創立していたといわれ、境内には下鶴間村を支配した領主、江原家の墓があります。
     目黒の交差点付近では、国道に阻まれて迂回せざるをえませんが、境川を渡ったところには観音寺があります。寺内には、天文13年(1544年)作と言われる大和市重要文化財指定第一号の「厨子」があります。
     この観音寺から先が下鶴間宿です。当時は「松屋」、「三津屋」、「ちとせ屋」等といった旅篭や、床屋、酒屋、小間物問屋等もあり、多くの旅人で賑わっていたとのことです。
     さて、下鶴間宿を更に西に行くと「まんじゅう屋」があります。現在は「記念碑」があるだけですが、天保11年(1840年)には、渡辺崋山も投宿しました。その店先で饅頭を売っていたところからこの名で呼ばれていました。
     下鶴間宿から「まんじゅう屋」辺りまで上ると、一面の柴胡(サイコ)の原が広がっておりました。渡辺崋山は著書「游相日記」の中でこのように表現しています。
       『鶴間原出つ。この原、縦十三里、横一里。柴胡多し。よって柴胡の原とも呼ふ。』
     この先相模大塚までは、大山を正面から右手に仰ぎながら、淡々とした大山街道を柴胡の咲き乱れる中を歩んで行ったことでしょう。

     ※『柴胡(サイコ)』 ミシマサイコまたはその変種の根を乾燥させた生薬。サポニンを含み、漢方で胸脇苦満を伴う諸疾患に用いる。(三省堂 大辞林第三版より)

    長津田~鶴間 5A[PDF:380KB]
    長津田付近から南町田付近までです。

    長津田~鶴間 5B[PDF:468KB]
    南町田付近から鶴間付近までです。

    6,鶴間~厚木

    下鶴間~国分~厚木

     下鶴間宿を出て、平坦な相模原台地を横切る大山街道は、めずらしく7キロほどの直線コースになります。昔は昼なお暗い雑木林の中を通る、人家もまばらな道でした。今では商家や住宅街が建ち並び、さみしい面影はありませんが、古道を伝える道標や庚申塔が幾つかみられ、「桜並木」には戦後の歴史も刻まれています。
     海老名市の誇る相模国分寺跡や国分尼寺跡などの国指定史跡は、大山街道沿いの旧「国分宿」の近くにあって、温故館や広い公園もあり、年間を通して多くの見学者が訪れます。また近くには4~5世紀頃に造られた前方後円型の瓢箪(山)古墳。少し足を伸ばせば、数個の古墳が集まり、全体が緑に覆われた秋葉山古墳群。さらに、全長6キロの人口の運河「史跡逆川」は、記念碑や船着場跡もあって、周囲の地形から往時を偲ぶことができます。
     海老名駅周辺は、かつて「一望三千石」といわれた、豊かな水田地帯でして、大宝律令により作られた「古代条里制」の基準線の一つが、大山街道になっています。相模川河畔・河原口には何軒かの船宿があり「厚木の渡し」として栄えました。

    鶴間~厚木 6A[PDF:281KB]
    鶴間付近から望地付近までです。

    鶴間~厚木 6B[PDF:459KB]
    望地付近から厚木付近までです。

    7,厚木~愛甲

    厚木~愛甲

     厚木の街は近世には小江戸と呼ばれ、近江商人達の商家が多く建ち並び、平塚、茅ヶ崎、藤沢、伊勢原、小田原、津久井、高座、八王子等、これらの地域を結ぶ甲州道、八王子道など街道の要衝地でもありました。中でも江戸と相州・矢倉沢を結ぶ矢倉沢往還は、ここ厚木で他の街道と合流し、現在の酒井付近で柏尾道と行き会ったのち西に向かい、宿愛甲を経て伊勢原へと至る人馬物流の大動脈でした。
     寛文10年(1669年)の厚木村の絵図では、南北を通ずる大通りの両側に建物が並び約90戸の家が数えられます。この頃、厚木はようやく宿場としての形態を整えることとなり、宿場の防火用水として必要な町の中央を流す堀が掘られました。この堀は天保2年(1645年)に横町(元町)の側溝から工事を起こし、天保年間(1681年)頃には町の中央まで通水され、さらにその60年後に下宿の最勝寺前までが完成しました。用水堀は今は見ることができませんが、当時の厚木宿は宿場町として、相模川の舟運の拠点として、大いに栄えたのです。

    厚木~愛甲 7A[PDF:373KB]
    厚木付近から愛甲石田付近までです。

    厚木~愛甲 7B[PDF:367KB]
    愛甲石田付近から伊勢原付近までです。

    8,愛甲~大山

    愛甲~糟屋~大山

     愛甲宿からの青山通り大山道(矢倉沢往還)は、糟屋宿で柏尾通り大山道と合流し、せきどめ地蔵のところで、矢倉沢往還から分かれて大山へ向かいます。途中、八王子通り大山道と合流し、石倉橋付近では、田村通り大山道など、各方面からの大山道が集中します。
     このように伊勢原市域では、多くの大山道が合流していました。時代によっては様々なルートがとられ、脇道も発達したことから、道のほとんどが大山道であったと言っても過言ではありません。今でも点在する多くの道標からその面影を見ることができます。
     三の鳥居を過ぎると門前町に入り、大山講の玉垣や、先導師の宿坊が建ち並びます。大山詣りが盛んであった江戸時代には、宿の玄関先に講社名を記した「板まねき」が掲げられ、大変な活気であったといわれています。今でも白い行衣に身を包んだ三市社の姿を見ることができます。また、川沿いには、あたご滝や良弁滝、元滝などがあり、禊ぎの様子が数多くの浮世絵で描かれています。
     追分けから女坂を登ると、途中には鉄造不動明王を祀る雨降山大山寺があり、阿夫利神社下社へと続きます。下社の登拝門では、夏山開きの儀式が元禄年間から続いています。
     下社から本社のある山頂までは、約1時間30分の登山道です。山頂からの眺めは素晴らしく、伊豆大島や伊豆半島まで一望できます。

    愛甲~大山 8A[PDF:360KB]
    伊勢原付近から這子坂付近までです。
    愛甲~大山 8B[PDF:400KB]
    這子坂付近から阿夫利神社付近までです。

    『相刕大山 諸人参詣之圖(3枚組)』(神奈川県郷土資料アーカイブより)
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