国道50号下館バイパス(下館市小林付近)![]() |
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| 県民性などということがいわれ、時々本も出る。血液型と同じで「どうかな?」と思うこともあるが、あたっているなと思うこともある。女性看護師さんは新潟県出身の人が多い。これは本当だ。茨城県人はどんな県民性なのだろうか。もしかしたら「ひたむき」ということではないか。そういうテーマで動いてみた。 | ![]() |
国道50号下館バイパスを走っている。こうして取材のために道を走っていると思いがけない出会いがある。平成15年の春には水海道市の弘経寺で映画ロケに出会った。スタッフに聞くとタイトルは『HAZAN』だという。板谷波山…。下館市出身で、後に文化勲章を受章した陶芸家である。
そのことを思い出したので下館市内の板谷波山記念館に行ってみた。案内を請い、東京・田端の工房にあったという窯を見せていただいた。三方焚口倒焔式丸窯という。石川県立工業学校の教諭の職をなげうって陶芸の道に入った波山が貧困の中、夫人・まるとともに造り上げた窯である。 まると波山との出会いも思いがけないものだった。石川県立工業学校に赴任する前(明治27年・1894)、波山が本郷の坂道を歩いていると袴をつけた女学生が荷車の後ろを懸命に押している。きつい坂道で必死に荷車を引く老人を女学生・鈴木まるは見過ごせなかったのである。 「外見もかまわず人に親切にしている。こういう人なら貧しい中でも陶芸家として立つ自分と一緒にやっていってくれるのではないか…」 まるの姿を見た波山はすぐにまるの両親の所へ行き結婚の許しを得たという。 まるは波山の思い通りの女性だった。貧しい暮らしの中、6人の子どもを育てながら波山を支えた。 一方、東京美術学校を出たものの、陶芸の師もおらず窯元で働いたこともない波山は、石川県時代に徹底して陶芸を研究した。各地の窯元に足を運び、絵柄をスケッチしノート(『製陶漫録』)を取った。むろん釉薬(うわぐすり)も研究した。そして、妻とともに自ら窯を築くところから陶芸の道に入ったのである。 波山が陶芸に魅せられたのは父・増太郎の影響だという。下館で醤油醸造業を営み雑貨も商う旧家の当主である増太郎は茶道のたしなみがあった。波山も幼い頃から焼き物に接する機会が多く「美しいものだという印象は強烈だった」と自ら語っている。 さて、波山の家は分家であり本家は木綿問屋だった。木綿というと栃木県の真岡が有名だが、下館にも真岡という地名があり、木綿問屋も多かった。江戸時代から下館にはこうした裕福な商人たちが、与謝蕪村のような芸術家を支援する風土が育まれた。そんな土地の人は先を見る眼も確かなようだ。明治の初め、下館・真岡間の鉄道を最初に計画したのは下館の商人達だったという。。 |
下館商人の鉄道構想は鉄道院による真岡軽便線というかたちで受け継がれ、明治45年(1912)に開業した。そして長い歴史を刻み、国鉄、JRを経て昭和63年(1988)には第三セクターに転換している。ちなみに真岡鐵道の愛称のコットンウェイとは「木綿の道」という意味だ。
真岡鐵道にお願いして内木克彦にお話を伺うことにしているのだ。内木さんは平成16年1月に合格した最も若いSLの機関士だ。普段は気動車、土日はSLを運転している。平成6年(1994)3月27日にSL運転が復活して今年で10年。その記念すべき年の6人目の機関士である。
乗客へのメッセージを聞いてみた。「ぜひ、乗りにきてください。そして2回でも3回でも。そのたびに煙りの出方も違いますから」下館に向けてC12が走る。再び益子町の北中と真岡駅でその雄姿をとらえた。 |
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真岡駅踏切付近でC12 |
真岡駅舎 |
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