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千葉古街道歴史散歩
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 慶長19年(1614)前後に造営。家康が鷹狩りに出かける際の休憩や宿泊所として使われたが、実際家康がこの御殿に立ち寄ったのは元和元年(1615)11月のみで、家康の子で二代将軍秀忠がその後狩猟のたびに立ち寄ったと考えられている。それ以後、将軍家の東金周辺での鷹狩りは催されず、船橋御殿は廃止され、同地は貞享年間(1684〜88)に船橋大神宮神職の富氏に払い下げられ畑地となり、富氏は御殿跡の中心部に家康を祀る東照宮を建立したと伝えられている。現在の東照宮の社殿は安政4年(1857)に再建され、昭和2年に修繕された。この東照宮は船橋御殿跡に残された日本一小さな東照宮として人々に親しまれている。  三代将軍家光が鷹狩りの際に愛馬が小石につまずき傷ついて死んでしまったことから、その屍を葬り供養をするために建てたとして伝えられている。境内には明治から現代までの石絵馬がたくさん奉納されている。ここから車で約5分ほど離れたところにある駒方観音堂には十九夜塔や子安観音などが収められており、奥には、長沼大仏の名で知られている金銅如来坐像が鎮座している。  号を愛染山延命寺金光院といい、薬師如来を本尊とする真言宗豊山派の名刹。金光院の山門は御茶屋御殿の裏門で移築されたと伝えられている。鷹狩りの時に、家康がこの寺に宿泊したといわれ、この時使用した什器(家具類)や、着物のほか、市重要文化財に指定されている金銅胎蔵の両界曼荼羅や、本堂前には家康が褒め称えたという”御手掛の桜”(現在は古い切り株のみ)がある。老樹多く閑寂な境内には古雅荘重な諸堂が立ち並ぶ。
   
 御成街道造成の際に直線を見通すため、この塚上の大木に昼は白旗、夜は提灯を提げて目印にしたところから提灯塚という名前がついた。街道には4・7・毎の等間隔に8ヶ所の一里塚があったとされ、現在一里塚の原型をとどめいているのはこの提灯塚のみであるが、この塚も、かなりの部分が削られ、当時の大きさの半分位になっている。    船橋を基点に東金まで続く御成街道のちょうど中間地点にある、一重の空堀と土塁とに囲まれた方形状の館跡。中世城館の発展した近世初頭の館跡として、ほぼ完全に残る御茶屋御殿は大変価値の高い遺跡といわれており、平成2年10月から行われた発掘調査により、番所が4ヶ所、御玄関、御広間、御主殿、御休息所、大長屋、御厩、御鷹部屋、井戸などの跡が発見され、ほぼその全容が明らかになってきている。    徳川家康の東金御成の際の宿泊所として慶長18年に造営。同じ時期、船橋御殿、御茶屋御殿が造営されているが、東金御殿が最も大きく、敷地面積は2,211uに及ぶ広大なものだった。家康が2回、秀忠が8回、家光が1回利用したとされる。寛文11年頃に取り壊され建物の一部は大網白里町小西の正法寺などに移築された。御殿の敷地跡には現在県立東金高校が建っている。